カテゴリー「シュナイト」の6件の記事

2008年4月18日 (金)

一期一会

 音楽は形のないものだからその演奏会を聴き逃すと二度と聞くことができず、一期一会という言葉がこれほど当てはまるものも少ない。これはきっといいコンサートになるからと思って誰かを誘った時に「またこの次に」と言われるとがっかりしてしまう。「次なんてないのに」と心の中で呟く。
 音楽も人生も「時間」というキャンバスの上に描かれた絵だ。1時間の曲は1時間かかって聴くしかなく、その時間ぶんの人生はその音楽で占有されてしまう。だから音楽のほうも大切な人生のうちの1時間を埋めてしまうだけの価値のあるものである必要がある。亡くなった鈴木ヒロミツの遺書のような本の中に「寝ている時間も余命としてカウントされているわけだから寝るのも惜しい」というような記述があり、心に沁みた。
 私が一緒に仕事をしているソプラノの平松英子を歌の世界に導いたのは氏家澄子さんという小学校の同級生だ(彼女は僕の中学の同級生でもある)。平松は彼女の誘いで合唱団に入り、後にミュンヘンで活躍しイェルク・デームスに「世界最高のリリックのひとり」とまで呼ばれるようになったわけだが、その澄子さんが最後に平松の歌を聞いたのがマーラー「大地の歌」ピアノ版全曲演奏会だった。彼女は病を隠して客席に座り、家に帰るとすぐ母親に「英子ちゃん素晴らしかった」と電話で報告を入れ、しばらくして亡くなった。癌だった。
 こんな話は世の中に山ほどあるだろう。きっと音楽にかぎったことでもないのだ。だが、いま私は音楽に関わって生きているわけだから、この音楽で身を立てていこうとしている若い人たちに向かってこう言い続けたい。
「手を抜くな。君の演奏を人生最後の音楽体験として聴く人もいるかも知れないのだから」
 我が愛する指揮者ハンス=マルティン・シュナイトはこれを体現している演奏家だ。マエストロは自分の晩年の貴重な時間と体力を切り刻みながら、神奈川フィルと音楽を奏でる。その時間の共有を強く意識すれば、我々もまた我々自身の人生のはかなさとかけがえのなさを噛みしめることができるのである。

2008年3月16日 (日)

ミサ曲第3番

 先日のみなとみらいホールでのシュナイト指揮神奈川フィルによるブルックナーのミサ曲第3番は大変な名演だった。しかし予想に反して客入りは良くなかった。読みの甘い私などは満席を期待していたのだが。原因は当日の天気の悪さと「ミサ曲」という点だったのだろうが、駅から雨に濡れずにすむホールであることを考えれば、主たる理由は後者だろう。交響曲なら多くの聴衆が集まったはずだがミサ曲では駄目なのだ。これが「クラシック音楽大国日本」の現実だ。たとえばベートーヴェンの第九は毎年数多く演奏されるが、それ以上の芸術的内容を持つ「ミサ・ソレムニス」の演奏機会は稀だ。
 シュナイトには熱心なファンの人々がいて、演奏会の度に多くのブログで書かれる。私もときどき読ませてもらっているがその感想の的確さに驚かされることが多い。マエストロにも「先生、こんなこと書かれていたよ」「へえ」などといって楽しんでいたりする。東京ではまるで知名度が低いシュナイトだが、電車でわずか30分の横浜にはこういうレベルの高い聴衆がシュナイトを待っているのである。妙な言い方になるが、一般に音楽を演奏する側であっても(そしてそれがプロでも)必ずしもその曲を充分に理解しているとは限らない。「聴く」と「演奏する」では「演奏する」ほうが偉いような気がするのは音楽教室の普及の影響だろう。芸術は人生の価値を高めるためにあるのであって、その方法の選択は自由だ。一生ヴァイオリンを弾くことを選ぶのと同じように、一生「聴く」ことを選ぶという積極的な選択があっていいはずなのだ。音楽が好きでアマチュア合唱団やアマオケに入り毎週練習に励むのもいいが、あなたがあなたの凡庸な指導者のために消耗しているまさに同時刻どこかで素晴らしいコンサートが開かれているかも知れないのですよ、と皮肉を言ってみたくなる。もっとも、みなとみらいのコンサートは、雷雨とミサ曲という二重のハンデのおかげで、終曲の後の美しい沈黙を聴衆の協力によって実現できたのであるが。
 「本当は私はブルックナー指揮者なんだ」と冗談交じりにシュナイトはよく言っていたが、ミサ曲第3番はそれが実感されられる演奏だった。それは愛用の総譜(古いハース版だ)への書き込み量のすさまじさでもわかった。しかし同曲を再度演奏する機会はマエストロの生涯で二度とないだろう。神奈川フィルとは来年の3月に「テ・デウム」があるが、その前の今年の10月28日には私のジャパンユースフィルと交響曲第7番を演奏する。日本の優秀な若者にシュナイトのブルックナーが直接伝わることを祈るばかりだ。

2008年3月 9日 (日)

言葉

 シュナイトは「言葉」の人である。リハーサルの時でもいわゆる音楽談義においても、豊富な語彙と的確な比喩によって、自分がイメージする音楽を相手に表現する。
 昨日はシュナイトと神奈川フィルの久しぶりの演奏会だったが、私はいつものように初日のリハーサルから立ち会った。曲目はハイドンの交響曲第82番とベートーヴェンの「田園」なのだが、「田園」はCDが雑誌の特選盤となったほどの名演だったので、その再演は楽しみだった。近年の実力の向上ぶりがめざましい神奈川フィルはリハーサルの初日からシュナイトの期待に応えたが、やはり空白の期間の中で生まれた欠点はマエストロから細かく修正された。
 そのほとんどはフレージングの問題だ。文章で表現するのは難しいが、たとえば主旋律では「歌うように、大きな弧を描いて弾いていく、あるいは吹いていく」ということをシュナイトはよく求める。また旋律の中で意味のないアクセントが聞こえて来てもすぐに指摘をする。それらが細かく丁寧に修正された後にはいわゆるシュナイト節が生まれ、一度それを聴いてしまうとそれ以外の表現はあり得ないような気持ちにさせられる。
 そういったリハーサル中にシュナイトは旋律に適当な歌詞をつけて歌うことが多い。それもきれいなテノールの声で。それを聴くと、至極当然のことなのだが、ドイツ音楽のメロディはドイツ語の語感で書かれていることにあらためて気づかされる。スコアの中の付点や休符は、言葉のリズムと切り離せない。舞踏のステップを知らずにメヌエットやサラバンドが弾けないのと同じように。イェルク・デムスもピアノのレッスン中に、生徒にステップを踊って見せたことを思い出す。
 神奈川フィルのリハーサル初日の夜、東京オペシティでの聖トーマス教会合唱団による「マタイ受難曲」のコンサートに行った。約70年前、シュナイトはここで歌っていたのだ。少年合唱だけによるマタイはいつも聴く大人の女声が入ったものとは随分趣が異なっていたが、逆にそれだけ「言葉」が飛び込んで来るように感じた。「マタイ受難曲」という舞台装置や衣装のない壮大なオペラの抽象性が、少年合唱によってより明解になったともいえ、シュナイトの音楽の原点に触れたように思った。
 昨日の「田園」には小さなハプニングがあった。曲の最後の和音が消えた後、シュナイトは祈るような姿勢をしたので、一度始まった観客の拍手が止まってしまったのである。シュナイトはリハーサル中から楽員に「この曲は祈りだ」と言っていた。たしかにその時、ホールにはまるでミサ曲が終わったかのような空気が満ちていた。

2008年2月26日 (火)

ピース

 先日、シュナイトを久しぶりに巣鴨に連れて行った。ドイツ人の巨匠と巣鴨とは妙な組み合わせのようだが、2007年の3月まで芸大の客員教授を務めていたシュナイトにとって外人教授用の官舎がある巣鴨は6年もの間住み慣れた街なのだった。芸大を辞めて以来ほとんど初めての巣鴨行きとなったシュナイトは、約束の時間の11時よりもはるかに早くホテルのロビーで私を待っていた。腰の具合が悪いマエストロを連れて行く手段は車しかないのだ。行き先は、丸八寿司とケーキのフレンチパウンドハウス、そしてケーキとコーヒーのカフェ・クラナッハの3軒だ。とくに丸八寿司には芸大時代ほとんど毎日通っており家族同然になっていたので、シュナイトはことのほか喜んだ。
 丸八寿司の職人たちはとても仲の良い一族で構成されており、そこにシュナイトは「日本人の家族」の美徳を発見していた。そして一人一人の名前や関係、誕生月まで把握していた。もちろん、ときどき思い違いをもしていたが。最初の妻を癌で亡くし、長男も亡くしたシュナイトはとても家族を大切にしている。
 そんなシュナイトだが、「ピース」が嫌いだ。店をハシゴしながら記念写真を撮って回ったのだが、ある店員がシュナイトの横でピースサインをしてポーズをとると「それは好きじゃないからやめろ」と制した。それはいつものことなのだが、シュナイトの前でピースサインは御法度なのだ。「平和」とはそんな安っぽいものだはない、というのがマエストロの意見だ。ミサ曲を歌う時にはいつも合唱団に「いまこの瞬間に苦しんでいる人たちのことを思え。イラクの人たちのことを思え。ヒロシマの人たちを思い出せ」と言う。自分たちが平和な国の中でのんびり音楽をしている時にどこかの国で誰かが苦しんでいる、そのことを音楽家はいつも忘れてはいけない、とシュナイトは言う。
 だからシュナイトは「アメリカ」も大嫌いだ。子供の頃、初めて西部劇映画を見て「インディアンは何も悪いことをしていないのに一方的に殺されて可哀想だ」と思ったという。なんたる慧眼。そしていつかアメリカに仕返しをしてやろうと、何年もの間、毎日少しずつコインを缶の中に貯め続けたという。いかにも「博愛の人」シュナイトらしいエピソードに私が笑うと「その考えは今でも変わってないけどね」とマエストロは悪戯っぽく笑い返すのだった。

2008年2月17日 (日)

天才少年

 シュナイトの経歴に記されていないことのうち、若い時のものでシュナイト自身から聞いたことをいくつか補足する。
 父親はルター派の牧師であった。マルティンというミドルネームはマルティン・ルターからとったものだ。家にはピアノが数台あったということから裕福だったことがわかる。ピアノを6歳から学ぶが、その家庭教師は半年で「もう教えることがない」と来なくなったという。そしてバッハゆかりの聖トーマス教会合唱団の入団試験の時に何か歌以外の楽器ができるかと訊かれヒンデミットのソナタ(!)を弾いたが、その場にいた大人たちはだれもその曲を知らなかった。彼は文字通り天才少年だった。教会の寄宿舎生活では規律というものを学んだ。
 はじめは作曲家を志した。ミュンヘン音楽大学在学中に書いたいくつかの曲は早くもブライトコップから出版され、サヴァリッシュ指揮のベルリンフィルでも演奏された。演奏後サヴァリッシュにステージに上がるよう促されたが恥ずかしさのあまりそれを拒み、後でベルリンフィルのマネージャーから叱られた。
 卒業後すぐにベルリンで活発な演奏活動を行う。ピアノ、チェンバロ、オルガン、オーケストラの指揮、合唱指揮、なんでもこなした。毎週ベルリンのラジオでシュナイトのバッハ演奏が流れた。いわゆるスターだったのだ。そのいわゆる「スター度」は、経歴にある「25才でベルリン教会音楽学校長に就任」という当時でも異例な抜擢でもわかるだろう。そのニュースは新聞にも載った。自分の部下である教師たちが全員年上なのには参った、とシュナイトは笑っていた。
 注目を集めたシュナイトだったが、そのままスター街道を歩むわけではなかった。それは校長職に早くから就いたように「教育」に興味を持っていたからだ。シュナイトは「それはヒンデミットの影響だ」という。「優れた演奏家は、教育者としても優れているべきだ」というのがシュナイトの持論なのだ。かくしてシュナイトの道は商業主義的なキャリアから、ややはずれた方向へと歩むことになる。演奏と教育の比重が半々となり、かつての天才少年は「中堅」のレッテルを貼られ、ヨーロッパのクラシック音楽ビジネスでの脇役となる。
 しかし我々はシュナイトの演奏を聴く度に単なる「正統派」以上の閃きを感じることができる。それは天性の「歌心」というべきだろう。私は彼のバッハを聴きながら、聖トーマス教会で歌っていた天才ハンス=マルティン少年の顔を思い浮かべてみるのである。

2008年2月16日 (土)

シュナイトの荷物

 昨日は指揮者ハンス=マルティン・シュナイトの荷物の運び込みを神奈川フィルの佐藤健氏と行った。シュナイト(いつもは先生、と呼んでいるが、カラヤン、ベームなどと同じ敬意とともに呼び捨てにさせていただく)は神奈川フィルの音楽監督を去年から務めているが、年間で指揮台に立つ回数はそれほど多くない。よって年に数回来日し、その度に横浜の某ホテルに長期滞在することになるが、スコアを含めそれなりに荷物があるので、それらは神奈川フィルの事務局が預かっているのである。そしてそのシュナイトが一昨日再来日したのである。あいにく出払っていたオーケストラのスタッフの代わりにせっせと働く事務局次長と私を眺めながらシュナイトは子供のように笑っていた。
 シュナイトは紛れもなく世界最高の指揮者の一人である。しかし日本での知名度も、そして悲しいことにヨーロッパでの「現在の」知名度も決して高いとはいえない。とくに日本ではマスコミに頻繁に登場する音楽家だけが「有名だ」ということで評価されるので、シュナイトはほとんど知られていない。ただその実演に触れたことのある横浜地域周辺の聴衆に熱狂的に支持されているだけである。運び入れた十数箱のダンボール箱のほとんどはシュナイトが長年使用していた総譜だ。その一頁一頁には太鉛筆で細かな書き込みがされている。ヨーロッパでも絶滅の危機にあるドイツ音楽の古き良き伝統を背負った巨匠がこの膨大な総譜とともに遊園地を見下ろす横浜のホテルの一室に佇んでいるということは、ひとつの奇跡だ。外は天気がいい。
 シュナイトと私はさまざまな因縁もあり関わりが深いので、これから何度も書くことになるだろう。今回はご存じない方のためにシュナイトの経歴を紹介するにとどめる。

ハンス=マルティン・シュナイト  (神奈川フィルハーモニー管弦楽団・音楽監督)
 1930年ドイツのキッツィンゲン・アム・マイン生まれ。10歳の時ライプツィヒ・聖トーマス教会合唱団に入団。ミュンヘン音楽大学で指揮・作曲・オルガン・音楽学を学ぶ。1954年ミュンヘン市よりリヒャルト・シュトラウス賞を受賞。1955年、25才でベルリン教会音楽学校長に就任。ベルリン・バッハ・コレギウム、カイザー・ヴィルヘルム記念協会バッハ合唱団を設立、指導に当たる。1960年ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮。1963年ベルリン芸術院賞を受賞。同年ヴッバタール市立劇場音楽総監督に就任。1971年ハンブルク音楽大学教授に就任。1984年急逝したカール・リヒターの後任としてミュンヘン・バッハ合唱団・管弦楽団の芸術監督に就任するとともに、バイエルン国立歌劇場常任指揮者に就任、ベルリン国立歌劇場、ベルリン・ドイツ・オペラなどでも活躍。1990年ベルリン国立歌劇場日本公演に同行、東京文化会館でモーツァルト「魔笛」を指揮。1997年東京フィルハーモニー交響楽団の協力のもとに設立されたシュナイト・バッハ合唱団の芸術監督に就任。1995年、国立ドイツ・ユースオーケストラ(DMO)を設立し音楽監督に就任。1998年10月、ベルリン市より特別賞を受賞。2001年4月13日ミュンヘン・ガスタイクにおいてJ.S.バッハ合唱団・管弦楽団の名誉指揮者に就任。2005年にはジャパンユースフィルハーモニック名誉指揮者に就任。