シュナイト音楽堂シリーズの最後であり、同時にシュナイトが神奈川フィルを指揮する最後の演奏会となった5月16日の演奏会は壮絶なものとなった。つまり後半のプログラムであるシューマンの交響曲第4番の最終楽章になってほとんど指揮をすることができず、最後の一音が鳴り終わると楽員や同時に袖から飛び込んできた楽団事務局員に支えられながら退場する、という終わり方をしたのである。
このことに関してはネット上でもいろいろと語られ、また問い合わせも受けたので、事実を整理してお話ししようと思う。
もともとこのシューマンシリーズは事務局の佐藤健氏から2年前に相談を受けた私の発案で、ソリストに息子のダニエル・シュナイトを使えばという思いつきもそうだった。けれども当時はダニエルは無名だったし無理だろうとのことだったが、シュナイト退任の流れが出来た頃に感謝の意味も込めて実現することとなった。私としてはベートーヴェンの全曲が絶対無理な以上(4番、8番は録り損ねたし第九は演奏しないとシュナイトは公言していた)、ブラームスとシューマンの全集ができれば、というレコード会社の人間としての欲もあったことを白状しておく。
一方シュナイトの健康状態はこの数年みるみる悪化していった。一昨年の入院騒動でわかったことだが、マエストロは手足のリウマチ以外に複数の消化器と循環器系の疾患を抱えており、それを自分でも知らずにいたのだ。その主な原因は食事である。何年も巣鴨の外国人用官舎にひとり暮らしを続けながらもすべて外食ですませていたことは、その官舎からの引っ越し時「先生、ゴミはどこへ捨てるの?」と訊いたら「知らない。ゴミを捨てたことがないから」という答が返ってきて初めて気づいた。そして長い間日本にいる時は太り、ミュンヘンに帰ると痩せる、ということを繰り返していた。そうしているうちにマエストロの健康は少しずつ蝕まれていった。
七十歳を過ぎた老人の外国での独り暮らしは決して楽ではなかったろう。シュナイトファンには信じられないことだろうが、芸大でのシュナイトの扱いは良くなかった。学生たちのほとんどが「シュナイト?誰?」という感じだった。マズアやロジェストヴェンスキーが来た時には大騒ぎするくせに、シュナイトが客員教授でいることのありがたさを大学側がアピールしなかったからだ。オーケストラ演習のために朝早く一人で山手線に乗って芸大に行っても学生がなかなかやって来ない、という情けない環境にこのドイツの巨匠は我慢しなければならなかった。「3回練習があるのに毎回メンバーが替わっていて、一度も来なかった学生と本番をやるなんて信じられない」となどとよく私に嘆いていた。何年間ものこのストレスは大きかったはずだ。そして最大の理解者であった佐藤功太郎氏が亡くなると(まるで当然かのように)芸大の職は延長されなかった。 (この項つづく)