芸大でのストレスと戦っているにちがいなかったその間も、シュナイトは神奈川フィルとは名演を連発した。そして音楽監督となったのはご存じの通りである。しかし、もともと頑固な性格だったシュナイトは難しい一面を見せることが増えた。そして都立大塚病院への緊急入院、帰国、公演キャンセル、再来日、そしてしばらくの小康状態の後、再度の緊急帰国、ドイツでの手術の後何事もなかったかのように再来日し公演....。こうしためまぐるしい流れは、安定した公演計画を望む神奈川フィルや合唱団の関係者を悩ませた。とくにドイツでの心臓カテーテル手術を楽団関係者に隠していたことは、私も含め皆が困惑せざるを得なかった(それを知られたらコンサートがなくなるとでも心配したのだろうか)。その流れの中で「2009年5月の音楽堂が限界だろう」ということで周囲の意見が一致したのだ。そしてもともと決まっていた5月1日のジャパンアカデミーフィル定期を私はシュナイトに依頼しなかった。もしそれを指揮していたらシュナイトは最後の音楽堂までもたなかったろう。
音楽堂の一週間前に行われた合唱団コーロ・ヌオーヴォとの「ヨハネ受難曲」は文字通りの名演だったが、中三日で神奈川フィルとのリハは辛かったかも知れない。息子のダニエルとイーナ夫人がいるから私は安心していたが、家族で横浜見物に外出してしまい逆に疲れをためたようだ(そのあたりの自己管理の甘さがシュナイトの欠点だ)。かながわアートホールでの練習二日目の昼休みにレストランでマエストロは体調を崩し、救急車が呼ばれた。ソファに横たわりながらも「練習を続ける。病院へは行かない」と意地を張るマエストロに私は「あなたのためではない、ダニエルのために病院へ行くのだ」と諭さなければならなかった。シュナイトの最終公演としてチケットを売りながらも万が一のために代役を捜さなければならなかった事務局はさぞかし大変だったと思う。
そして迎えた音楽堂の公演の内容はファンの方々がブログに書いている通りである。あの公演で賞賛されるべきはオーケストラとコンサートマスターの石田泰尚だ。とくに第4楽章に入ってからシュナイトは足に力が入らなくなり、寄りかかる姿勢で座る指揮者椅子から何度もずり落ちそうになるのを指揮台のバーに左手をかけて支えなくてはならなくなった。そうでなくてもほとんど動きの止まっている右手は、スコアをめくるために使われた。いつ倒れるかわからない指揮者を見ながら演奏を続ける団員の心境はいかばかりであったろうか。
もちろん私たちがいる下手舞台袖も万が一の時の対応に追われた。舞台袖から固定で録っていたビデオをあとで見返すと、マエストロは第4楽章の最後まで一応振っているつもりではあったことがわかる。しかし最後の音が消えるまでは待つことができずに崩れかけた。それをしっかり見極めて音が消えると同時に石田泰尚たち数名の団員は立ち上がりその身体を支え、同時に舞台袖から飛び出した事務局スタッフたちによって両脇を抱えられながら退場したのである。最後の舞台を振り返ることもなしに。(この項つづく)