シュナイトの経歴に記されていないことのうち、若い時のものでシュナイト自身から聞いたことをいくつか補足する。
父親はルター派の牧師であった。マルティンというミドルネームはマルティン・ルターからとったものだ。家にはピアノが数台あったということから裕福だったことがわかる。ピアノを6歳から学ぶが、その家庭教師は半年で「もう教えることがない」と来なくなったという。そしてバッハゆかりの聖トーマス教会合唱団の入団試験の時に何か歌以外の楽器ができるかと訊かれヒンデミットのソナタ(!)を弾いたが、その場にいた大人たちはだれもその曲を知らなかった。彼は文字通り天才少年だった。教会の寄宿舎生活では規律というものを学んだ。
はじめは作曲家を志した。ミュンヘン音楽大学在学中に書いたいくつかの曲は早くもブライトコップから出版され、サヴァリッシュ指揮のベルリンフィルでも演奏された。演奏後サヴァリッシュにステージに上がるよう促されたが恥ずかしさのあまりそれを拒み、後でベルリンフィルのマネージャーから叱られた。
卒業後すぐにベルリンで活発な演奏活動を行う。ピアノ、チェンバロ、オルガン、オーケストラの指揮、合唱指揮、なんでもこなした。毎週ベルリンのラジオでシュナイトのバッハ演奏が流れた。いわゆるスターだったのだ。そのいわゆる「スター度」は、経歴にある「25才でベルリン教会音楽学校長に就任」という当時でも異例な抜擢でもわかるだろう。そのニュースは新聞にも載った。自分の部下である教師たちが全員年上なのには参った、とシュナイトは笑っていた。
注目を集めたシュナイトだったが、そのままスター街道を歩むわけではなかった。それは校長職に早くから就いたように「教育」に興味を持っていたからだ。シュナイトは「それはヒンデミットの影響だ」という。「優れた演奏家は、教育者としても優れているべきだ」というのがシュナイトの持論なのだ。かくしてシュナイトの道は商業主義的なキャリアから、ややはずれた方向へと歩むことになる。演奏と教育の比重が半々となり、かつての天才少年は「中堅」のレッテルを貼られ、ヨーロッパのクラシック音楽ビジネスでの脇役となる。
しかし我々はシュナイトの演奏を聴く度に単なる「正統派」以上の閃きを感じることができる。それは天性の「歌心」というべきだろう。私は彼のバッハを聴きながら、聖トーマス教会で歌っていた天才ハンス=マルティン少年の顔を思い浮かべてみるのである。