音楽は形のないものだからその演奏会を聴き逃すと二度と聞くことができず、一期一会という言葉がこれほど当てはまるものも少ない。これはきっといいコンサートになるからと思って誰かを誘った時に「またこの次に」と言われるとがっかりしてしまう。「次なんてないのに」と心の中で呟く。
音楽も人生も「時間」というキャンバスの上に描かれた絵だ。1時間の曲は1時間かかって聴くしかなく、その時間ぶんの人生はその音楽で占有されてしまう。だから音楽のほうも大切な人生のうちの1時間を埋めてしまうだけの価値のあるものである必要がある。亡くなった鈴木ヒロミツの遺書のような本の中に「寝ている時間も余命としてカウントされているわけだから寝るのも惜しい」というような記述があり、心に沁みた。
私が一緒に仕事をしているソプラノの平松英子を歌の世界に導いたのは氏家澄子さんという小学校の同級生だ(彼女は僕の中学の同級生でもある)。平松は彼女の誘いで合唱団に入り、後にミュンヘンで活躍しイェルク・デムスに「世界最高のリリックのひとり」とまで呼ばれるようになったわけだが、その澄子さんが最後に平松の歌を聞いたのがマーラー「大地の歌」ピアノ版全曲演奏会だった。彼女は病を隠して客席に座り、家に帰るとすぐ母親に「英子ちゃん素晴らしかった」と電話で報告を入れ、しばらくして亡くなった。癌だった。
こんな話は世の中に山ほどあるだろう。きっと音楽にかぎったことでもないのだ。だが、いま私は音楽に関わって生きているわけだから、この音楽で身を立てていこうとしている若い人たちに向かってこう言い続けたい。
「手を抜くな。君の演奏を人生最後の音楽体験として聴く人もいるかも知れないのだから」
我が愛する指揮者ハンス=マルティン・シュナイトはこれを体現している演奏家だ。マエストロは自分の晩年の貴重な時間と体力を切り刻みながら、神奈川フィルと音楽を奏でる。その時間の共有を強く意識すれば、我々もまた我々自身の人生のはかなさとかけがえのなさを噛みしめることができるのである。