先日のみなとみらいホールでのシュナイト指揮神奈川フィルによるブルックナーのミサ曲第3番は大変な名演だった。しかし予想に反して客入りは良くなかった。読みの甘い私などは満席を期待していたのだが。原因は当日の天気の悪さと「ミサ曲」という点だったのだろうが、駅から雨に濡れずにすむホールであることを考えれば、主たる理由は後者だろう。交響曲なら多くの聴衆が集まったはずだがミサ曲では駄目なのだ。これが「クラシック音楽大国日本」の現実だ。たとえばベートーヴェンの第九は毎年数多く演奏されるが、それ以上の芸術的内容を持つ「ミサ・ソレムニス」の演奏機会は稀だ。
シュナイトには熱心なファンの人々がいて、演奏会の度に多くのブログで書かれる。私もときどき読ませてもらっているがその感想の的確さに驚かされることが多い。マエストロにも「先生、こんなこと書かれていたよ」「へえ」などといって楽しんでいたりする。東京ではまるで知名度が低いシュナイトだが、電車でわずか30分の横浜にはこういうレベルの高い聴衆がシュナイトを待っているのである。妙な言い方になるが、一般に音楽を演奏する側であっても(そしてそれがプロでも)必ずしもその曲を充分に理解しているとは限らない。「聴く」と「演奏する」では「演奏する」ほうが偉いような気がするのは音楽教室の普及の影響だろう。芸術は人生の価値を高めるためにあるのであって、その方法の選択は自由だ。一生ヴァイオリンを弾くことを選ぶのと同じように、一生「聴く」ことを選ぶという積極的な選択があっていいはずなのだ。音楽が好きでアマチュア合唱団やアマオケに入り毎週練習に励むのもいいが、あなたがあなたの凡庸な指導者のために消耗しているまさに同時刻どこかで素晴らしいコンサートが開かれているかも知れないのですよ、と皮肉を言ってみたくなる。もっとも、みなとみらいのコンサートは、雷雨とミサ曲という二重のハンデのおかげで、終曲の後の美しい沈黙を聴衆の協力によって実現できたのであるが。
「本当は私はブルックナー指揮者なんだ」と冗談交じりにシュナイトはよく言っていたが、ミサ曲第3番はそれが実感されられる演奏だった。それは愛用の総譜(古いハース版だ)への書き込み量のすさまじさでもわかった。しかし同曲を再度演奏する機会はマエストロの生涯で二度とないだろう。神奈川フィルとは来年の3月に「テ・デウム」があるが、その前の今年の10月28日には私のジャパンユースフィルと交響曲第7番を演奏する。日本の優秀な若者にシュナイトのブルックナーが直接伝わることを祈るばかりだ。