シュナイトは「言葉」の人である。リハーサルの時でもいわゆる音楽談義においても、豊富な語彙と的確な比喩によって、自分がイメージする音楽を相手に表現する。
昨日はシュナイトと神奈川フィルの久しぶりの演奏会だったが、私はいつものように初日のリハーサルから立ち会った。曲目はハイドンの交響曲第82番とベートーヴェンの「田園」なのだが、「田園」はCDが雑誌の特選盤となったほどの名演だったので、その再演は楽しみだった。近年の実力の向上ぶりがめざましい神奈川フィルはリハーサルの初日からシュナイトの期待に応えたが、やはり空白の期間の中で生まれた欠点はマエストロから細かく修正された。
そのほとんどはフレージングの問題だ。文章で表現するのは難しいが、たとえば主旋律では「歌うように、大きな弧を描いて弾いていく、あるいは吹いていく」ということをシュナイトはよく求める。また旋律の中で意味のないアクセントが聞こえて来てもすぐに指摘をする。それらが細かく丁寧に修正された後にはいわゆるシュナイト節が生まれ、一度それを聴いてしまうとそれ以外の表現はあり得ないような気持ちにさせられる。
そういったリハーサル中にシュナイトは旋律に適当な歌詞をつけて歌うことが多い。それもきれいなテノールの声で。それを聴くと、至極当然のことなのだが、ドイツ音楽のメロディはドイツ語の語感で書かれていることにあらためて気づかされる。スコアの中の付点や休符は、言葉のリズムと切り離せない。舞踏のステップを知らずにメヌエットやサラバンドが弾けないのと同じように。イェルク・デームスもピアノのレッスン中に、生徒にステップを踊って見せたことを思い出す。
神奈川フィルのリハーサル初日の夜、東京オペラシティでの聖トーマス教会合唱団による「マタイ受難曲」のコンサートに行った。約70年前、シュナイトはここで歌っていたのだ。少年合唱だけによるマタイはいつも聴く大人の女声が入ったものとは随分趣が異なっていたが、逆にそれだけ「言葉」が飛び込んで来るように感じた。「マタイ受難曲」という舞台装置や衣装のない壮大なオペラの抽象性が、少年合唱によってより明解になったともいえ、シュナイトの音楽の原点に触れたように思った。
昨日の「田園」には小さなハプニングがあった。曲の最後の和音が消えた後、シュナイトは祈るような姿勢をしたので、一度始まった観客の拍手が止まってしまったのである。シュナイトはリハーサル中から楽員に「この曲は祈りだ」と言っていた。たしかにその時、ホールにはまるでミサ曲が終わったかのような空気が満ちていた。