ある若い女性ピアニストが私に話してくれた美容院でのエピソード。コンサートの前に行って美容師に「ピアニストだ」といったらどんな音楽だと聞くので「クラシック音楽だ」と答えると、それはどれくらい前の音楽なのかとさらに聞く。だいたい二百年から百年前ぐらいのものが多いと言ったら「そんなに昔の音楽を弾いて楽しいのか」と驚かれた。「クラシック音楽のこと知らない人っているんですねえ」というのが彼女の感想だ。
しかし、その美容師のほうが正常な感覚だ。我々がいつも聞いているクラシック音楽のうち古典派から前期ロマン派までは江戸時代にすっぽり収まってしまう時代のものであることをどれだけの人が思いながら聴いて、あるいは弾いていることだろうか。もちろん芸術の価値は普遍的なものであり、民族や時代を超えている。しかしそれは「超えた部分もある」ということにすぎない。二百年前のウィーンの人の気持ちは、いま極東の島国に住む私たちには絶対にわからない。しかも21世紀の私たちはジャズやロックも経験している。いまさら古楽器を持ち出して来ても遅いのだ。バーンスタインも「クラシックの演奏は美術館の展示にスポットライトを当てるようなものにすぎない」というようなことを言っていた。文明開化は昔の話であるし、オーケストラもホールも我々は充分すぎるほど持っている。しかしそこで聴かれているもののほとんどが江戸時代のしかも異国の音楽であると聞いたら、さぞかしあの美容師は驚くことだろう。
初めてキューバへ行ったとき、若い女性たちだけの素晴らしい弦楽オーケストラを紹介された。彼女たちが演奏する曲は、自国を中心としたラテンアメリカやスペインなどの現代曲ばかりだった。メンバーのひとりに「ヴィヴァルディの四季とかは演らないの?」と聞くと、一瞬驚いたような顔をしてから笑顔で「それはヨーロッパの古い団体がやることです。私たちは私たちの音楽を演奏する責任があるのです」と答えてくれた。我ながらつまらぬことを聞いたものだ。
ヒロシマや水俣、阪神大震災を経験し、差別や拝金主義に翻弄され、イラクやチベット問題に心を痛める私たちの音楽も、きっとヴィヴァルディではないはずだ。