まだ音楽よりもIT系の広告ディレクターとしての仕事のほうが忙しかった1999年、10日ほどサンフランシスコに滞在しJavaOneというイベントに参加した。それはアメリカのコンピューターメーカーであるSun Microsystemsが開いたもので、世界中から集まった2万人もの開発者たちが毎日ひしめきあって、最新技術を学んだり発表したりしていた。巨大なイベント会場に収まりきれない何百ものセミナーは近隣のホテルまで使って開かれた。
ソフト開発者でもない私がそこへ行った理由はSunが私の当時のクライアントであったということだけでなく、Sunが開発したJavaという言語がドコモの携帯電話に搭載されることになりその正式発表がそこであるという話を聞いたからだ。1999年はまだIT革命が日本でも世界でも加速度をつけて進行中の時期で、とくに携帯電話の分野ではデジタル化をいち早く実現した日本メーカーの独壇場だった。広く商用化される以前からインターネットの分野に関わっていた私は、日本メーカーの技術のアピール力を見てみたかった。
ところが実際に会場に着いてみると、日本人はとても少なかった。インターネットと携帯電話の融合に関するプレゼンテーションもほとんどなかった。毎日いろんなセミナーに出席したのだが、たまに見る日本人はたいていグループで行動し、ディスカッションに積極的に参加するようなことはなかった。話題になっていたLinuxの開発メンバーたちによるオフ会にも加わったが日本人は私だけだった。どこへ行っても東洋人がいるなと思うとたいてい韓国人か中国人で、世界各国からの参加者たちは会場の中をまるで遊園地で遊ぶ子どもたちのように楽しみ、新しい友人を作ろうと活発に動いていた。
私は毎日これを見せつけられ、そのうち日本は負けると確信した。個々のテクノロジーは優秀でも、こうした人的交流の場に参加できないようではいつか取り残されるだろう。コネクションというのはただ「この人を知ってる」だけではなく「この人と意気投合した」ということなのだ。
案の定ITバブルが崩壊後、IT分野において日本企業は主導権を握れず中国・台湾・韓国のメーカーの後塵を拝することになった。日本発のテクノロジーのほとんどは世界標準として採用されなかったのである。ほどほどに大きい日本市場に安住しているうちに世界市場から取り残される現象を「パラダイス鎖国」と呼ぶのだという。
そして私が日本のクラシック業界の「パラダイス鎖国」現象に気づくのはそのすぐ後で、それは今に至るもいささかも変わっていないのである。